大学のゼミで出された「自己の相対化を図るにはどうすればいい?」という課題に対して発表した内容が「面白い」と教授に好評だったので、内容を補足したりした上でブログでもサクッと紹介したいと思います。
そもそも「一歩引いて自分を見る」なんてのは無理
ゼミで想定されていた「自己の相対化」というのは、感情など自分の内面を一歩引いた視点から観察することを指している(だいたい)ようでした。
が、仮に「悲しい」という感情が
- 受験に失敗して悲しい
- 失恋して悲しい
- 作業中のアプリが落ちて悲しい
とこんな感じであったとしても、それぞれの「悲しい」の背景は違うし、そこから「自分はこういう人間だ」と想像するのは難しい。特に今の時代はいろいろな物事に接する機会が多いので、その色々に接した自分を客観視するのは大変な作業ですし労力もかかりますよね。
だからこそ、一歩引いて自分を見て生きるのではなく「自分はどういう人間なのか」を絶対的な指標として自分の心に持っておくことが大事なんじゃないかなと思うんですよ。
「大きな社会」と「小さな社会」で生きる
そもそも、現代の社会は単に1つの「社会」というものが存在しているわけではなくて、1つの大きな社会の中にたくさんの小さな社会があるような気がしています。
そして、僕たちはそれぞれの社会集団の中の一員になりきることによって生活をしています。これが僕の考える「自己の相対化」です。
例えば、大学の授業を受けているときや学割を使ってなにかをしようとしているときは「大学生」という身分を使っているし、大学生をしていないときには「ブロガー」とか「フリーランス」とか、あるいは「作家」といった身分を使って生活をしている。身分でもいいしキャラクターとも言えると思います。
上は僕の例でしたが、人はたとえ一人の人間であっても複数のキャラクターを持って生活しているわけです。
自分はどういう人間なんだ?を考える
ただし、複数あるキャラクターの中で「どのキャラクターが求められているか」は社会集団それぞれで違います。「大学生」が求められる場で「ブロガー」を出しても仕方ないですし、フリーランスとしてのやり取りが求められている場面で大学生を出すのも違う。
仮に間違ったキャラクターを出してしまうと、話が噛み合わなくてトークが冷めてしまったり、商談がうまく行かなくなってしまうわけです。
なのでこういった事態を避けるために僕たちはそれぞれの集団で求められるキャラクターに「なりきって」生活しているわけですが、ただ「なりきる」だけだと相対化できてないんじゃ…?と思うわけです。
相対化とは「相対」から分かるように「絶対」があってこそ成り立つもので、絶対的な存在=自分があることによってそれ以外の存在=他人を相対化出来ると思うのです。
その絶対的な自分を「なりきり」によって無くしてしまうと、もうそれは自分ではなくて単なる社会の一部。相対化しようにも出来ないんですよね。絶対が無いから。
だからこそ、まず「自分がどういう人間なのか?」を自問して、自分のキャラクターをはっきりさせておくことが重要ですよね。キャラクターをはっきりさせて小さな社会それぞれの一員になることが、結果的に「自己の最適化」に繋がっていくんだと思います。
…という発表でした。たまに難しいこと考えると頭がパンクしちゃうね。
[wpap service=”with” type=”detail” id=”B07FZWZPDS” title=”学びを結果に変えるアウトプット大全”]