“僕が写真を撮る理由、それは「その時の感情を記憶に残したい」から。それっぽく言うと「喜怒哀楽を残したい」ということになる。”
こう書いたのは、ちょうど去年のこと。去年はカメラやレンズをたくさん購入したこともあって写真を撮る回数が増えたけど、その分「どうして写真を撮るのか」に悩んだ1年だった。そして、その答えが上の文章というわけ。
あれから1年。写真を撮る理由が明確になった僕は、果たして「喜怒哀楽」を写真に残すことは出来ていたのだろうか。
「哀」が多かった一年
2020年は圧倒的に「哀」が多かった一年だった。
理由は言うまでもなく例の感染症。どうしようもない社会の閉塞感に飲み込まれて、4月からの2ヶ月間は自分自身も割と限界を迎えていた。
なんとか限界を超えないように、毎日できるだけカメラを持って散歩に出るようにしていた。でも、どうも写真を撮る気になれないし、撮れた写真にはどれも当時の重い空気感が漂っているように感じる。
この時期の写真はどれもまともな現像が出来ていないし、現像していない写真だって多い。1日に何百枚も写真を撮る機会が無くなってしまったので、1ヶ月で撮った枚数が去年のある1日に撮った枚数に満たなかった。
今年のはじめに書いた「今年も昨年同様、たくさんの場所に出かけたいと思っています」という抱負も、予想には程遠い結果になってしまった。旅行先からゼミに参加したりしたかったけど、こればっかりは仕方ない。
「哀」が多かったこそ「喜楽」が際立つ
でも、「哀」が多かったからといって「喜楽」がこれっぽっちも無かったかと言われると、そんなことはない。むしろ、今までで一番と言っていいくらい「喜楽」の機会が少なかったからこそ、一つ一つの濃さは段違いだなと振り返って思う。
例えば、伊香保、台湾、広島。初めて行く土地で目にする光景はやっぱり魅力的だし、その場の空気感をフルに味わう瞬間は何回体験しても楽しい。
雑誌やSNSで見かけた「あの写真」「あの構図」を自分の手で撮影することも楽しい。現像で自分なりの色味を出したり、現像では作れない色のためにわざわざ早起きしたり、夜遅くまで粘ったり。
天気が悪くてお目当ての光景が見られないこともあるけど、その分見られた・撮れたときの嬉しさは格別だ。
数少ない会食の機会も楽しかった。もちろん2019年以前のように盛り上がったりすることは避ける必要があったけど、それ以上に、会えなかった期間を乗り越えて「友人と会える」という現実が嬉しかった。
時期を見計らってテーマパークに行ったりもした。人数の制限されたパークは予想外に快適で、不謹慎ではあるけどずっとこのまま制限が続いてほしいと思ってしまった。
もちろんデジタルだけじゃなくて、フィルムでも写真は撮った。
色々と手間がかかってしまう分どうしても去年より撮る枚数は減ったけど、現像が終わるまで仕上がりがわからないフィルムカメラはいつも新鮮な気持ちで写真が撮れる。
2021年は「みんな」の喜怒哀楽を残したい
激動だった2020年。写真に関しては、圧倒的量の「哀」に対して質の「喜楽」でなんとか対抗したみたいな形になっているけれど、やっぱり足りないものがある。それは「みんな」の喜怒哀楽。
僕自身の、その時々の感情を写すのはもちろん楽しいことではある。
でもそれより、同じ場にいるみんなの表情や空気感を写真として残しておくことが何よりも楽しいし、だからこそ写真を続けられていると、改めて感じた1年だった。
分かっていたことではあるけど、つくづくみんなに生かされてるな。
今はまだ難しいかもしれないけど、いつか来るであろう「みんなの喜怒哀楽を残す」時、そのいつかが2021年だといいなと、心から思う。
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今回の記事は、しむさんことカメラを買う人( @46sym )主催の「カメクラが沼へ誘う Advent Calendar 2020 #カメクラの沼カレ2020」というアドベントカレンダーに向けて書きました。
カメクラの沼カレ2020では全2つのアドベントカレンダーを通して、毎日2人のフォトブロガーが物欲とカメラ欲を刺激しまくるブログ記事を公開しています。
僕の前日である12月20日の担当はabcさん( @dabcphoto )。よくよく考えたら去年もこの並びだったような気が…。例によってエグい写真だ…(バケペンは買いません)
そして翌日12月21日を担当してくれるのはシュンスケさん( @shunsuke333 )。「カメラ?」とのことだけど、カメラじゃなかったらどんな記事なんだろう?M1 Macのこと?